1: 風吹けば名無し 2013/11/27 15:58:13 ID:Zr3vqsnW, 9: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:03:17 ID:GOqRqjjC, 3: 風吹けば名無し 2013/11/27 15:59:27 ID:BXri2tSw, 7: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:00:58 ID:ssONG86g, 49: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:20:08 ID:JQzgeaxO, 125: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:40:13 ID:RN9v+xjZ, 127: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:41:21 ID:gPQCtAQM, 132: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:42:46 ID:RN9v+xjZ, 14: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:05:15 ID:tqu3k755, 15: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:05:28 ID:vLlzO1MU, 16: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:06:33 ID:wzKFBT2y, 23: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:09:28 ID:+S/hLIdf, 25: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:09:31 ID:dyAA5TQH, 29: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:10:14 ID:+S/hLIdf, 37: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:12) 2013/11/27 16:13:31 ID:zyzBIWi9, 32: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:11:39 ID:gV53isq3, 36: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:13:22 ID:InPAVeIl, でもまぁ負けると人生が終わったように感じるとかって言うし勝ったらそら嬉しいやろなぁ, 33: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:11:57 ID:JGRRBXQL, 38: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:13:48 ID:qDkiY+8y, 42: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:14:56 ID:AcYCp7pp, 52: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:22:21 ID:3P0SIXuW, 56: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:24:50 ID:cGssk73L, 69: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:27:00 ID:gPQCtAQM, 78: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:29:58 ID:RSB1FvNN, 45: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:17:42 ID:9ny3M0PH, 51: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:12) 2013/11/27 16:20:44 ID:zyzBIWi9, 47: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:19:12 ID:1Vh2sVIh, 53: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:23:34 ID:YvRmQrmU, 61: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:25:34 ID:yg3wv5JU, 72: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:28:08 ID:YvRmQrmU, 104: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:36:09 ID:YvRmQrmU, 110: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:37:26 ID:wzKFBT2y, 118: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:38:51 ID:InPAVeIl, 54: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:23:51 ID:90qOGXVY, 60: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:25:16 ID:1Vh2sVIh, 57: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:24:59 ID:pqgKJCYE, 74: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:28:22 ID:mM1s3egC, 76: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:29:12 ID:3rFpnO8H, 87: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:32:05 ID:7RdXIpIf, 77: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:29:44 ID:9ny3M0PH, 84: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:31:32 ID:7RdXIpIf, ってか問題は羽生世代衰える衰えるとかいってその下の世代のが先に衰え始めてる現実よ洒落にならんほんまに, 137: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:44:35 ID:6Ozg7+SB, 138: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:46:13 ID:JGRRBXQL, 142: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:48:32 ID:2Dmgypm4, 148: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:49:13 ID:j+UMpqCZ, 155: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:50:39 ID:gPQCtAQM, 159: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:52:09 ID:6wC9Y435, 177: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:55:45 ID:7RdXIpIf, 188: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:58:25 ID:j+UMpqCZ, 197: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:59:27 ID:aff/DENb, 203: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:00:20 ID:gPQCtAQM, 265: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:10:34 ID:GbITobhQ, 274: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:11:56 ID:HzfoGiQq, 275: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:11:57 ID:NDBB2lyo, 272: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:11:13 ID:j+UMpqCZ, 279: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:12:16 ID:1uY8dwrt, 287: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:13:32 ID:zSaPYKg3, 転載元http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1385535493/【将棋】渡辺竜王の羽生愛wwwwwww, 渡辺の世代は渡辺の孤軍奮闘だからな 同世代の55年組がタイトル席巻したタニーよりも状況は悲惨だよ 山崎阿久津橋本が羽生世代とは言わないまでもポスト羽生ぐらいの活躍をしていれば世代間の戦いも違ったものになってるんだろうけどな, 香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業, ホントなら羽生世代に村山聖もいたんだよなぁ 豊作すぎるだろ 羽生世代いなくなったら将棋界ごと消えそうw, 羽生世代を作り出したの谷川だったりするよな 羽生が6歳で将棋を始めた時に谷川が中学生棋士になってるのを見て自分も谷川の様になりたいと憧れを持った様だし、村山も谷川が若くして名人になったのを見て谷川を目指して将棋を指してたし, この頃はまさかわずか4年後に佐藤康光会長になって、羽生さんが永世七冠になるとは思わなかったよな, シモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」でもしっかり読めば、自ずと解ることだと思う。 …, いっその事、国で男はカツオくんカット、女はワカメちゃんカット、従わない奴は死刑と…, 羽生本人がいってるように一人じゃなくて羽生世代で走ってこれたからこそってのはあるやろな, 13: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:04:40 ID:Zr3vqsnW, 40: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:14:24 ID:cGssk73L, 95: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:33:40 ID:yg3wv5JU, 139: 風吹けば名無し 2013/11/27 16:46:26 ID:D4wuvI/0, 284: 風吹けば名無し 2013/11/27 17:13:17 ID:aff/DENb, http://ameblo.jp/tiyuukennbi/entry-11512327041.html. 俳優の東出昌大(28)が、映画「聖(さとし)の青春」(監督森義隆、今秋公開)で将棋の羽生善治3冠(45)を演じる。 98年に29歳でぼうこうがんのため亡くなった天才棋士、村山聖さんの生涯をつづった 同名ノンフィクション小説が原作。 羽生の意志の強さが若手の中でも抜きん出ているだけだ。 この日の将棋は両者とも冴えが見られなかった。 私が羽生善治という人物の偉大さを改めて思い知らされたのは、翌日の彼の行動である。 翌8月11日の昼間、広島にある村山聖の実家を弔問に訪れたのである。 東京から広島の村山の実家まで、どんなに急いでも5時間以上はかかる。 (略) すぐ弔問に行かなかった棋士が不義理をしたのではない。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 1998年度の春から治療に専念するために1年間休場していた、その矢先の出来事でした。, その前年度、村山八段はA級復帰を決め、NHK杯で準優勝する活躍を見せてから、たった数カ月しか経っていませんでした。, そのNHK杯決勝の相手であり、その日対局中だった羽生善治四冠(当時)の心情が、以下のように伝えられています。, 8月10日 村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段(追贈)。 森信雄七段門下。 棋士番号は180。いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一 … 近代将棋1998年11月号、読売新聞の西條耕一さんの「普段着の棋士たち 関東編」より。, 村山八段死去の知らせを聞いた。まさかとも、やはりとも複雑な心境だった。観戦記を二度担当した。私は観戦記自体まだ十数局しか書いていないので、思い入れのある棋士だ。夕刊に死亡原稿を書き連盟へ。この日は竜王戦準々決勝、羽生-郷田戦があり、いずれにせよ千駄ヶ谷へ行くつもりだった。, 正午過ぎ、3階の事務室に行くと、郷田が椅子に座って、机の一点をじっと見ていた。死去を聞いたばかりで「去年麻雀を打ったのが最後になりました」と消え入るような声で言った。, 別件の取材で佐藤名人もいた。何か話しかけられたが、うわ言のようだった。今春のA級順位戦最終局の後、佐藤と二人で未明まで飲んだ。村山の今期休場を聞いた佐藤は「村山君には一度も本気を出してもらったことなかったよ」とつぶやいた。, 二人ともかなり酔っていた。私がどういう意味かと尋ねると「素人には分かりません」といかにも彼らしく、突き放した答が返ってきた。村山は羽生を認めていたが、佐藤を認めていなかったのだろうか。悔しそうな顔だった佐藤が、急に声を荒げたので今でもよく覚えている。, 4階の対局室をのぞいた。奨励会の例会日だ。相変わらず騒がしい。彼らには彼らの人生があり、感傷にひたっている暇はないのだろう。, 特別対局室に入ると、上座の羽生がどうもという顔をした。やはり昼休みに聞いたらしく、常にポーカーフェースの彼でも、やはりどこか沈んだ表情だった。, 私もぽおっとしているうちに夕方になり、控え室で追悼原稿を書き始めた。机をはさんで羽生、郷田が並んで出前の夕食を食べていた。他にもう対局はない。二人とも黙々と箸でかき込んでいた。郷田は10分もかからず食べ終え、控え室から出た。, 「攻めが鋭くて、勝負カンが冴えている将棋。もし健康ならタイトルをいくつか取ったでしょう」と答えてくれた。「もし村山さんが健康でも、羽生さんは七冠を取れましたか」とちょっと意地悪な質問をすると、少し考えて「もし健康ならと同情されること自体彼は嫌だったでしょうね」とだけ言った。多くを語りたくないという様子だった。, この日の将棋は両者とも冴えが見られなかった。羽生優勢の終盤だったが、両者ともに不可解な手を指し最後は羽生が勝った。よほどショックが大きかったのだろう。, 夜、大阪の池崎さんに電話してみた。村山と親交が深かったので、広島の実家に行ったはずだから様子を聞いてみた。, 昼前に羽生が弔問に訪れたという。昨夜帰宅したのは午前0時過ぎだ。すでに密葬も終わり、いつ行っても状況は変わらない。そこを朝一番の飛行機で挨拶に行ったのだ。村山の自宅は東京から急いでも5時間以上かかる。羽生はその翌日にも対局があったが、それでも行った。すぐ弔問に行かなかった棋士が不義理をしたのではない。羽生の意志の強さが若手の中でも抜きん出ているだけだ。羽生の人生には妥協という文字はないのだろう。七冠取れるわけだ。, 池崎さんによると、村山は5月に師匠にも黙って再入院。名人戦の最中は棋譜が見たくて、連盟の関西本部に電話して自宅にファックスを送ってもらっていた。それを両親が村山に伝えた。佐藤の名人奪取をどう思っただろうか。息をひきとる1時間前まで意識があったという。復帰して必ず名人になると思い続けていただろう。私はほんの少しのつき合いだったが、将棋の原稿を書くのがつらいと思ったのは初めてだった。(棋士の敬称略), 村山聖八段の死を聞いた郷田真隆棋聖(当時)、佐藤康光名人(当時)、羽生善治四冠(当時)のそれぞれの心模様。, 「棋士野球部・キングスには、どんな棋士が参加していますか?また、実力はどのくらいですか?」, 「三番勝負の初戦を落として後のない先崎は、いささかハデな格好で対局場に現れた。『ジャンボ尾崎が着てるような感じの柄のシャツですよ』と聞いて、おおっ、と思う」.

村山の自宅は東京から急いでも5時間以上かかる。羽生はその翌日にも対局があったが、それでも行った。すぐ弔問に行かなかった棋士が不義理をしたのではない。羽生の意志の強さが若手の中でも抜きん出ているだけだ。 すでに密葬も終わり、いつ行っても状況は変わらない。そこを朝一番の飛行機で挨拶に行ったのだ。 特別対局室に入ると、上座の羽生がどうもという顔をした。 羽生優勢の終盤だったが、両者ともに不可解な手を指し最後は羽生が勝った。よほどショックが大きかったのだろう。, 自分が天才と認めた戦友が、まだ29歳と言う若さで亡くなったのは、羽生さんといえどさすがにショックだったのでしょう。, しかし、羽生四冠は休む間もなく、広島にある村山八段の実家まで弔問へと向かったというのです。, 昼前に羽生が弔問に訪れたという。昨夜帰宅したのは午前0時過ぎだ。 羽生の人生には妥協という文字はないのだろう。七冠取れるわけだ。. ?が注目された第77期C ... 2018年の将棋界は、「羽生善治竜王が通算100期を達成できるか?」が大きく注目 ... Copyright© 1: 風吹けば名無し 2013/11/27 15:58:13 ID:Zr3vqsnW渡辺竜王の新書『勝負心』における羽生さん・登場数:204羽生さん・1ページ平均:1.3羽生さん・最多登場数:7羽生さん(55ページ)渡辺「自分が羽生 … 2020 All Rights Reserved. 夕刊に死亡原稿を書き連盟へ。この日は竜王戦準々決勝、羽生-郷田戦があり、いずれにせよ千駄ヶ谷へ行くつもりだった。 映画「聖の青春」の追加キャストの発表がありました。そこで、注目されたのが、羽生善治役の東出昌大。あまりのそっくりぶりにトレンド入りする程でした。ということで、東出さんと羽生さんの比較画像、追加キャストに関するみなさんの反応をまとめました。

村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段(追贈)。森信雄七段門下。棋士番号は180。いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。, 3兄姉の次男として生まれる。5歳のとき、腎臓の難病であるネフローゼ症候群にかかっていることが発覚。府中町立府中小学校に入学するも病状が悪化し、広島市民病院の院内学級[1]・引続き広島県立原養護学校(国立療養所原病院に隣接)で6年生の1月まで過ごす[2]。ともに入院していた子が亡くなることもあったという[3]。, 入院中に父から将棋を教わり、それに没頭するようになる。体に障るからと何度注意されても朝から晩まで指し続けた。母には、小学館の学習雑誌や「将棋世界」などの本を持ってきてもらったという[3]。初めて読んだ将棋の本は「将棋は歩から」(加藤治郎著), 10歳の時、広島市内の元奨励会員が開く将棋教室に、療養所の月3回の外出日を利用し通い[4]、アマチュア四段を認定される。その後、11歳から名門将棋道場「広島将棋センター」に移ってさらに腕を磨き、中国こども名人戦で4大会連続優勝。また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破るまでに至った。1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し敗れたという。1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、それによる上京の際に真剣師として知られる小池重明と遭遇し、彼と指し合い勝利したエピソードも記録されている。, 当時名人候補であった谷川浩司を倒したいという目標より、中学1年生となった1982年にプロ棋士を目指す(谷川の名人就位は1983年)。両親にとってその知らせは青天の霹靂であったが、病気の背景もあってか「好きなことをやらせたい」という思いがあり、師匠探しをすることに。, しかし、プロ棋士への道はうまくはいかず、以前将棋を教わっていた元奨励会会員は、まだ師匠の紹介は早いと告げ、態度を保留した。しかしながら、病身であり猶予がないことから、これにめげず両親は他に師匠探しを始める。その結果、「広島将棋センター」の日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より、大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を引き合わせた[3]。当時30歳であった森は「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない」と思い、聖を絶賛したという[3]。この時、村山は暑がりなのか真冬なのに裸足でズックを履き、ワイシャツを腕まくりしていたと伝えられている[3]。, 1982年、森を師匠とし奨励会を受験、合格する。しかし、当初相談を受けた元奨励会員も、親交のあった灘蓮照に実は紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていた。灘はこれを理由に入会に反対し、結果として認められなかった。その後、森の師匠であり当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。, 入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。大丈夫や」と嘘をついて村山を安心させた[3]。村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。, その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。また、読書家でもあり、のちに1998年の「将棋年鑑」アンケートで「好きな作家」に河あきら、麻耶雄嵩、太刀掛秀子、森博嗣、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.、アガサ・クリスティ、梶尾真治、倉知淳、ピーター・ラヴゼイを挙げている。また、1997年のインタビュー記事では好きな漫画家として萩尾望都、塀内真人をあげている[5]。しかし、関西将棋会館には体調の許す限り毎日のように通い、研究にいそしんだ[3]。将棋に打ち込みたいあまり、無理をしてでも出かけたことも度々あったという。, 1986年11月5日にプロデビュー。奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードであった(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。, しかし有名になったため、悪口も言われるようになる。村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから切ることを極端に嫌がり、ネフローゼ症候群による浮腫もあいまって独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる」と励ました。また、ある日森が日本将棋連盟雑誌編集部の大崎善生とともに公園の中を歩いていると、村山と遭遇。村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。髪切りや。たまには歯ぁ磨き。手ぇ出し。(手を握って)まあまあやな」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにした[3]。なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は「肉丸」、山崎は「ちん丸」というあだ名で呼び合っていたという。, 奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。その代表的なエピソードとして、村山を含む棋士達が、A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で検討していた際、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。詰んどるやろ」と言った。そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています」という声が上がった。後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している[3]。, 村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、10代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。自分の時間が残り少ないことの裏返しの言葉だとされている。, 1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳になりました」と話す。その理由は「20歳まで生きることができて嬉しい」ということであった[3]。, 棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出しにすることが多かったが、羽生に対してだけは特別の敬意を払っていたという[1]。当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士になった者らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれ、羽生、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心となった。また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できないこともあり、実績では羽生に遅れを取った。, 1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという[3]。, 1992年度に第42期王将戦の挑戦者となり、1993年1月から谷川浩司王将と七番勝負を戦う。対局用の和服の新調が間に合わず、着たのは公開対局の第3局からであった[3]。その第3局は矢倉戦となったが、初手から終局まで両者の飛車が一度も動かないという珍しい一局となった(右図参照)。七番勝負は0勝4敗で敗れたが、谷川曰く「村山らしくない終盤のミスが何度もあった」。後に将棋フォーカスでは、「私のタイトル戦でも、名誉なタイトル戦で、印象に残っている」と発言している。これが、彼にとって生涯唯一のタイトル戦となった。一方、順位戦では好成績を収め、2年連続昇級で1993年春、B級1組へ昇級する。, 1994年1月12日に師匠の森が結婚式を挙げる。結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた[3]。, その後村山は関西から関東への移籍を決心。森も村山自身のためになるとして賛成し、『将棋世界』編集長となっていた大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。「聖」の名から「ひじりちゃん」というあだ名をつけられた[3]。, 1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。これが村山にとっては新人棋戦以外での唯一の優勝である。また、同時期の1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦し、強手△7五飛(70手目)から優勢を保って124手目までで羽生に勝ち、通算対戦成績を6勝6敗としている。しかし、この頃から病状が悪化、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。, その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。村山は「子供を作れなくなるのが嫌だから」と手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。手術を受けることを決断させた。1997年6月16日に行われた手術は、片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。抗癌剤・放射線治療については、脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困るという理由で拒否していた。, 手術後早くも復帰の意思を見せ、医者には「脱走してでも行く」と告げるほどであった。1997年7月14日、復帰第1戦となった第56期B級1組順位戦2回戦の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。結果は丸山の勝ちで、33手詰めであった。しかし、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。この一戦では敗れたものの、1期でA級復帰を決める。, 同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。決勝の相手は羽生であった。村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミス(68手目△7六角)をして優勝を逃す。しかし、局後のインタビューでは、「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と笑顔で冗談混じりに答えた。これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた(休場による4月の不戦敗も含めると6勝8敗)。, 1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、彼は「変わったな」と思ったという[3]。同年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、A級復帰祝賀会が村山最後の表舞台となった。1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。, 以降、広島大学病院の名札の無い病室[3]でひっそりと過ごし、8月8日に死去(享年29)。名人になる夢は叶わなかった。薄れていく意識の中でも棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最期の言葉であったという[1]。遺志により葬儀は家族のみの密葬とし、葬儀終了後にその死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟は、その功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。また、「将棋世界」は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。A級在籍のまま逝去したのは、山田道美、大山康晴に続き史上3人目である。, 死後、地元府中町では「村山聖杯将棋怪童戦」を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。, 村山はかなりの負けず嫌いな性格であった。将棋以外にも、囲碁や麻雀で負けた際も非常に悔しがっていた。生前、徹夜で麻雀に付き合った当時奨励会三段だった瀬川晶司は「なんて子供っぽい人だろう」と思い、「A級がそんなことを言うんじゃないでしょ」と言ったことがある。これがきっかけとなり、村山は、亡くなるまで彼と親交を持った。, 麻雀については映画『聖の青春』でも語られ、ライバルの羽生は将棋と共にチェスとの二刀流であるのに対し、村山は囲碁や麻雀など、将棋とルールや先読み能力などが全く異なるゲームも並行して三刀流以上であった。, 指導棋士の加藤昌彦は、奨励会から去る時の送別会の酒席で村山から「加藤さんは負け犬ですよ」と言われたことに怒り、殴り合いの喧嘩に発展したことがあると語っている。加藤は「(後に映画化されたシーンを見た感想として)ほぼ、あの通りです。25年前のことなんですが、何とも言えない複雑な気持ちになる。ぼくは将棋界に帰ってくるつもりはなかったし、村山君もぼくとの別れが寂しかったんでしょう」とコメントしている[6]。, http://blog.goo.ne.jp/goonobuo1952/e/8b7be536fdf4a8d032b31543e8965d7e, https://mainichi.jp/articles/20170327/ddl/k27/040/313000c, “【甘口辛口】天才棋士・村山聖を描いた映画を見て思うこと…人間対人間に命をかけたからこそのドラマ”, http://www.sanspo.com/etc/news/20161129/amk16112905000001-n1.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=村山聖&oldid=78685958, 月刊ノーマライゼーション2004年4月号(日本障害者リハビリテーション協会)の書評で取り上げられている.